田島伸二のブログ-Tajima Shinji

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zoom RSS シルクロードを旅しながら考えたこと

<<   作成日時 : 2015/06/23 00:23   >>

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20代のとき、ドイツのミュンヘン駅をオリエンタル急行の夜汽車で出発し、二日間かかってトルコに到着しました。それからイラン、アフガニスタン、パキスタンを経てインドまで汽車やバスをさまざまに乗り継いで2か月間、陸路で旅したことがあります。

最初、トルコの地に着くと、そこからアジア大陸が広がっていました。東西文明の十字路ともいわれるイスタンブール、私が目にし、耳にし、臭いをかいだのは、ヨーロッパ社会の時間や空間とはまるで異なった、ごちゃごちゃとした活気ある世界や生活でした。ここでは、あらゆるものが生(なま)の形で動いており、生き、笑い、愛し、哀しむひとびとのアジアの生活がそこから広がっていたのです。南国特有の灼熱の太陽と、照り返す路上の熱気のなかで、ひとびとのすさまじいかけ声、ののしりあい、叫び声などを聞いたのです。イスラム教のモスクからは、コーランの祈りへの呼びかけアザーンが天空にこだまし、何百年も全く同じ鉄のハンマーで打っていたのではないかと思えるかじ屋のハンマーの音。羊の腸に水を入れ運ぶ黒い服装の男たち。きゅうりを十字にさいて、塩をふりかけ、それを片手にもって売り歩く少年たち。黒煙を吐きながらけたたましく走りゆくポンコツ自動車……。そしてウスクダラの町に到着すると、昔、日本でも流行ったウスクダラの歌を子どもたちが歌ってくれました。これは日本で流行った江利チエミさんのウスクダラです。
https://www.youtube.com/watch?v=yS_vI_A4Rzs


トルコではおよそあらゆる存在が、生きのびようと必死にもがき、自分の存在を容赦なく主張しているのを感じました。私は鼻の穴を黒くさせながらも、しかし私は、全身でホッとするくつろいだ感じをもっていました。この世界は、ドイツやヨーロッパで感じたいかにも文明人らしくかまえることもなく、きびしくきめられた姿勢や役割りを行儀よく演じることもいらない、ただ人生に自然に参加してゆくだけで十分な空間だったのです。つまりアジアへの入口で、私は、ヨーロッパの時間や空間と全く違う実にくつろいだ人間的なスペースを感じたのです。あとでふりかえる時、このごちゃごちゃとした明るく生き生きした体験は、じつに幸せなアジア体験のはじまりではなかったかと思えます。ドイツやフランスで感じた冷たく暗く長い冬のなかで、ヨーロッパがもっているある種の冷たさは、一体どこからくるのかと、終始考えていました。


ミュンヘンの雪の朝には、トルコ、ギリシャ、ユーゴスラビアなど南の地からやってきた黄色いゼッケンを着けた外国人労働者が、悲しげな表情で雪かきをしていました。そのそばを毛皮をはおったひとびとは、高級車のベンツで静かに通りすぎてゆく。ヨーロッパはたえず、気持ちのいい空間を求めていたのです。外国人労働者を使って、いかなるものを犠牲にしても。ドイツの犬は、余りにも行儀が良く、オペラ見物に連れてゆかれても、調教が徹底していて、人間以上のきちんとした態度で鑑賞していました。これは驚異。犬は吠えるものだということを忘れてしまっているようです。


ミュンヘンの街角でみかけた上品な骨とう屋。ショーウインドーのなかには、世界各地から集められたアンティークの人形が無表情に大きく目を見開き、買い手がつくのを待っていました。そこには、インドネシアの農村から運ばれた大量のワヤンクリ(影絵人形)が無造作に積みあげられていました。これだけのワヤンクリが、インドネシアの村々から運び去られると今、その村では影絵は消えてしまったことでしょう。今やヨーロッパでは、気持ちのいい文化財は投機の対象となり世界中で買われ、売られていくのでした。


いろいろな体験を漠然と考えながら、トルコのイスタンブールから黒海を船で横切ったときのこと、船中ではトルコの落下さん部隊に所属する兵士がさかんに落下さんで飛びおりる時の話をしてくれました。千人ぐらいが空から飛びおりると一人や二人はパラシュートが開かなくて大地にたたきつけられて死ぬというのです。そう言ったあと、兵士たちはみんなでけたたましく大笑いしましたが、そのあとは急にシーンと黙りこんでしまったのです。重たい沈黙。彼らは兵役が終わったら、郵便局の配達員やパン屋の親父になって故郷で働くといっていた。人生を夢見ている若い兵士たちだったのです。


けわしい山岳地域のイランを越え、アフガニスタンへと一人旅はつづきました。とつぜん、砂漠に銭湯の煙突のようなものが見えてきた。これは工場地帯かなとおもっていたら、ターバンを巻いた老人が、あれは古いモスクの尖塔の遺跡だと教えてくれました。焼けつくような砂漠のなかで、ひとふさのぶどうをくれた親切な老人―それにしても一人旅はじつにさまざまな事を経験させてくれます。この尖塔のあった地名は、へラートだという。このヘラートという古い町は、後年、タリバンとアメリカ軍との壮絶な戦いが行われ、街のほとんどが完全に破壊されてしまったそうです。


イランの山中の茶店で、ホンコン映画のスター。ブルースリーを夢見るイランの青年たちから、「あなたはブルースリーで有名な日本から来たのか?」と質問を受けました。ブルースリーは、香港なのだが、まあどちらでもいいだろうと「イエス、イエス」と大雑把に答えていたら、突然その男から決闘を申し込まれました。ハハハハハ、私はオタオタです。 (笑)。幸い、私はブルースリーの国ではなかったので、決闘は丁寧に断り、「実は私は旅で疲れているから・・・またあとで・・・・ハハハハ」いろいろなことがありながらも、インドへ、インドへと陸路の旅をつづけのです。


インドへ向かった理由は、実はインドの詩聖とも呼ばれるロビンドロナート・タゴールが設立したシャンティニケタン(平和の地)の学園で、哲学を学ぼうと考えていたのです。その地では大きな菩提樹やバニヤンの木の下で、生徒が円形になって師の教えを聞きながら伝統的な授業がおこなわれているというのです。そこに教育の理想があるのではないかと思ったのです。


2ヵ月後、インドに無事に到着、私は西ベンガル州のタゴール国際大学のあるシャンティニケタン(平和の地)の地で、大学院の哲学科に籍を置いて、2年間暮らしました。仏教大学から博士課程に籍を置いていた田中さんには、ずいぶんお世話になりました。滞在中、二階の窓から見える砂漠状の大地を見ながらいつも夢想しながら書いた物語は「さばくのきょうりゅう」という作品でした。この物語は日本では講談社から、そしてインドでは15言語で翻訳出版され、アジアではほとんどの国で翻訳出版されました。これは砂漠をいくラクダの隊商の仲間たちが、油の売上をめぐって権益争いをする話。この内容は中東の現在の争いと酷似していたのです。


考えてもみれば、シャンティ二ケタンの砂漠では、タルガーチと呼ばれる高いヤシの木が、いつも風の中で音をたてて揺れていました。あれからいったい何年が風のように過ぎていったことでしょう。思い起こすたびに人生の過ぎ行く時間は迅速だと感じます。しかし私は今もシルクロードを旅しているような気がするのです。私はどこを目指して生きているのでしょうか?


その当時、私は、ロビンドロナート・タゴールが呼びかけた“人類の岸辺に集まれ”という呼び声に応えて、はるばるシャンティ二ケタンの地までかけていったわけですが、しかしいつの時代でも学園とは、うつわや形だけで成立するものではありません。人間らしい人間がいて、つまり中身の人間がいて、はじめて成立するものだけに、タゴールなきあとの「魂のぬけた哲学」の講義には何の興味ももてなかったのです。そのため学校には行かずに、ベンガルの農村地域を歩き回るのを私の日課としました。ベンガルの村には、ベンガル人とは違うサンタールという先住民族である先住民族であり少数民族が住んでいたのです。私は、サンタ―ルの人々が持っている生活様式や生き方から、大きなものを感じたのです。それは自然とともに生きる人々の姿で、後年、この学園の出身者である芸術家のA.ラマチャンドランと知り合ったとき、彼も同様のことをしゃべっていましたが、サンタールの文化に触れて、私は初めて、かってタゴールが目指したシャンティニケタンの魂に触れた気がしたのです。


インドの多様性はすごいですね。言葉は州言語だけでも15ぐらいあるし、公用語もヒンズー語や英語、そして民族の多様さは東西南北にそれぞれの顔があります。宗教といってもヒンズー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教、ゾロアスター教、シーク教、などが混沌として共存し、インドはじつに興味深い世界であった。人間と自然が、伝統と現代が、混然一体となって生きている。もちろん相互間の軋轢や摩擦は大変深刻でした。ドイツでは犬も人間もしっかり区別されていましたが、インドでは区別は存在しない代りに、カースト制度という人間の差別構造が村の生活のすみずみまで根を下していました。

憲法では、カーストを制度を禁じても、そのなかで声にならない声を出して叫んでいたのが少数民族のサンタールのひとびとでした。しかし彼らは、誇りをもって古代からの無限の時間のなかを豊かな文化とともにたくましく生きつづけているようにみえたのです。しかし一般のベンガル人は、彼らに厳然とした差別意識をもって、アンタチャブル(不可触選民)以上に、少数民族は差別されていたのです。そしてバウルという吟遊詩人の存在も知りました。彼らは一絃琴を手にもって、家々を周り歩く人々ですが、誇り高く放浪する吟遊詩人とも云えるでしょうか。


私がかって住んだロトンポリという地域には、赤茶けた砂の砂漠が広がっていました。毎朝太陽が昇るとその砂漠を、就学できず、家系を助けるために働いている六歳から八歳ぐらいの子どもたちが牛や山羊を連れてやってきます。片手に小さな竹の笛をもち、その音色が響いてくると、私はきまって砂漠に飛び出しました。そして子どもたちと一緒に「砂漠の学校」なるものを始めたのです。それは雨上がりの後、砂漠で見つけた良質の粘土で、牛ややぎなどさまざまな動物を創るものでした、タゴールが自ら作詞作曲した歌を歌ったりしてのんびりと暮らしていました。砂漠の子どもたちが、生まれてはじめてつくった牛や山羊は、子どもたちが生活のなかで家畜を知り尽くしているだけにじつに感動的なもの。粘土のかたまりは、彼らの手にかかるとたちまち命のかたまりのように表現されたのです。またある時、町で買ってきたベンガル語版の美しい絵本を子どもたちに見せたことがあります。絵本には、満月の晩、白象と黒馬が月の光を浴びながら楽しく踊っている絵が画かれてありました。その絵本を子どもたちにみせると、子どもたちは、まるで魂でも奪われたかのようにいつまでも見入っていました。


やがてインドでの滞在を終え帰国し、私は縁あって、ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)というところで働くことになりました。そこには伊藤良二という素晴らしい理事長がおられました。私は、40名もの応募者の中からたった一人だけ彼の眼鏡にかなったということでしたが、私はこのACCUがひどく気にいったのです。つまり帰国後は、このような仕事を立ち上げようとしていたからです。そしてACCUのアジア地域のユネスコ活動に参加したとき、「本の飢餓」に苦しむ子どもたちは、インドだけでなく中国やベトナムやイランやモンゴルなど、ほとんどのアジアの国々、そして世界中に広がっている状況を知ったのです。そして、それからジア・太平洋地域の25か国と共同で児童書や絵本や識字教材などの共同開発に従事し、識字事業を開始することになったのです。幸運な時代でした。夢想したことは、すべてACCUで実現できたのです。そして20年以上をここで過ごしたのです。


1990年の国際識字年には、世界160か国の協力で学校にいけない子どもたちのための絵本(『なにをしているかわかる!』(日本語版は朝日新聞社刊)を刊行しました。これらの事業を通じて「この世で最も美しい絵本は、この世で最もこれを必要としている子どもたちにまっ先にとどけてゆく事」が必要だと痛感したのです。しかし、アジアやアフリカなどの現実はきびしく、学校にいけずに文字の読み書きのできない子どもたちは激増しています。アジアには約7億人にのぼる文字の読み書きのできない大人と、就学できない児童が1億人以上にのぼっていたのです。そして、その数は人口爆発により激増しているのです。大人に文字の読めない人々が増加するのは、父母の生き方がその子どもたちに大きな影響を与えていたのです。飽食の日本の現状からどうしても見えないさまざまな現実がアジアには深く広がっていました。日本の子どもたちに、この光と影を背負ったアジアの現実をどにょうに伝えてゆくか。21世紀には、私たちは大きな責任と課題を背おっているように感じたのです。


私は一つの夢をもっていました。ドイツやインドにいた時、書きためていた童話を出版する事、1988年、英文で”The Legend of Planet Surprise”(「びっくり星の伝説」)を自費で刊行しました。これからのアジアの子どもたちに自分の感じたメッセージを寓話のスタイルで伝えたかったのです。驚いたことにこの本は2年もたたないうちにアジア10か国で15言語で翻訳出版されていきました。ラオスでは、この本を刊行するために募金運動がおこり、2万部が無償でラオスの小学校に配られていきました。タイでは政府文部省によって5万部が刊行され、マレーシアでは国立文学研究所(デワン・バハーサ・ダン・ブスタカ)で700名の人々が出版記念会を開いてくれました。私は喜びで胸がはりさけるような嬉しい気持ちでした。するとラオスやベトナムの友人が言ったのです。
「あなたの物語りには、私たちの人生や生活が生写しになっているのです。あなたの物語というより私たちの物語なのです」彼らの言葉を思い返すと喜びが込み上げてきます。


「びっくり星の伝説」に描いたものは、「人間の手と言葉がつくり出した人間の歪な文明の意味を表現してみたかったのです。あふれる言葉と何ともいいようのない巧みな人間の手が、一体いかなる世界を創り出してきたのか。人間は、幸せになることよりも不幸せになるものばかりをつくり出してきたのでは・・・・・その後も、「大亀ガウディの海」という物語の英語版が刊行され、1999年、オックフォード大学出版局からも英語版で刊行され、アジアの言語では20言語となって広がっていきましたが、その中に描いた太平洋のでの核汚染の物語は、2011年に3.11という大津波や福島原発事故で悪夢が再現されたのでした。いまだに未来が描けない深刻な日本です。


このような日本を含め、アジアは今大きな変動のなかにあります。21世紀を生きていく子どもたちにアジアのこの現実を、この光と影をどう伝えてゆくべきか。かつてシャンティニケタンの地で考えたことがあります。「児童文学に関係する人々よ!口にくわえて食べている子どもたちを、一刻も早くテーブルの上にもどしてくれ。いやテーブルの上ではなく、土の上に、自然の上に、思い切り返し自然にもどしてくれ。自然のなかにいて、初めて子どもたちは、子どもらしく、人間らしくなる。」


「自然に生きることこそ、人間は学ばねばならぬ。」
これがシルクロードを風のように旅して得た単純な結論でした。


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