田島伸二のブログ-Tajima Shinji

アクセスカウンタ

zoom RSS 三陸海岸の被災地を歩きながら考えたこと・・・・・・

<<   作成日時 : 2011/06/05 11:38   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

三陸海岸を10日間にわたって歩いて来ました。あるときにはボランティアをしながら、あるときには被災者と一緒に涙を流しながら、そしてあるときには被災者の切実な体験話に耳を傾けました。あなたは「津波てんでんこ」や「命てんでんこ」の本当の意味を知っていますか? 本当の意味はとても意味深長でした。

津波が襲来したときには、人のことは構わずに、自分の命を大切にして、それぞれてんでばらばらに逃げ出すことだけではありません。その本当の意味を、私は岩手県両石町の被災地で実際に聞いた話です。人はそれぞれ自分の命に責任をもつということなのですが、それが実際に津波が来たときには、どうしたらいいのか、ということなのです。

「おじいちゃん、おばあちゃん!津波が来るから逃げよう」、そう言っても頑固なおじいちゃんやおばあちゃんは一緒に逃げ出そうとしなかったこともあるといいます。「わしゃ、この家にいるよ!この家がいいんだよ。大丈夫、ここまで津波は来ないから・・・・・」

おじいちゃんやおばあちゃんは、頑固に自らの体験をもとにそう言った。そのため孫の若者たちは、「そこまで言うのなら、わたしも一緒に居てあげるね」と声をかけたという。こうした若者たちが、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に津波で流されたという。ああ、将来のある若者たちがたくさん流されてしまった。これはおじいちゃんやおばあちゃんからの嘆きの声である。

また大津波が来たとき、第一波の津波のあと「俺の車が気にかかる。あれはローンで買った唯一の財産だからな・・・俺、車取ってくる」と言って、たくさんの若者たちが、高台から自分の家に車を取りに帰ったという。しかし・・・・彼らは二度と高台には帰ってこなかった。

気になる物や財産などに心を引かれた人々の多くも流された。そして車にたよって、車で逃げ出そうとした人々も津波に飲まれて流されてしまった。だれもかれも車で逃れようとして、道は大変な渋滞になったのである。これも重要な「命てんでんこ」である。いったいなにを守ることが重要なのか!津波で破壊された両石町の町長さんから聞いた実話です。

また避難所に逃れるときに、年長者は昭和8年(1933年)の津波(最大で28メートルの津波で1522名が亡くなった)や1960年のチリ津波(最大で6メートルの津波で142名が亡くなった)のことだけを念頭においていたという。そのためさらに高台には逃れなかったという。

明治29年(1896年)の三陸大津波では、最大が38メートル、実に22000名が亡くなっていた)ことを全く考えていなかったと言うのである。つまり津波の襲来を甘く見た結果が今回の事態を招いたのではないか、特に三陸地帯では地震や津波が頻繁に歴史の中で繰り返されていることから、もっともっと重大な対策がとれらてよかったのではないか。これは政府と人々の責任でもある。

宮沢賢治は、明治29年の大津波の年に生まれ、昭和大津波の年に亡くなった。その間、関東大震災が発生、飢饉は東北地方を何度も襲った。そのあと何が起きたか? それは戦争への序曲!大陸の広大な領土獲得に向けて、日本軍部による満州州事変という15年戦争が始まっていく。つまり経済が破綻してくると人間の歴史はいつも繰り返す。今回も気をつけておかないと、隣国の韓国、中国、ロシアと領有権をめぐってきな臭い衝突が始まっていく。

日本は元気!!がんばれ日本!というような言葉が独り歩きするときには、内外の情勢によくよく気をつけておかねばならない。自然の津波よりも、人災による津波ははるかに恐ろしい。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三陸海岸の被災地を歩きながら考えたこと・・・・・・  田島伸二のブログ-Tajima Shinji/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる