田島伸二のブログ-Tajima Shinji

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zoom RSS インドのシャンティ二ケタン(平和の地)での思い出・・・・創作や思考したことなど・・

<<   作成日時 : 2008/12/06 05:50   >>

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 ラマチャンドラン画ーさびしい狐

1975年頃、インドの西ベンガル州のシャンティ二ケタンに遊学していたときの思い出です。インドの前は、ドイツのミュンヘンに遊学していたのでした。ミュンヘンからオリエンタル急行に乗ってトルコに到着、それから陸路で約2カ月かけてインドへの西ベンガル州へ到着したのですが、その旅が余りにも刺激的でおもしろかったこと、心も言葉も及ばれねというところでした。ートルコーイランーアフガニスタンーパキスタンそしてインドへと旅は続いたのです。

そしてインドの西ベンガル州に到着すると、その地のタゴールの学校(Visva-Bharati) の大学院哲学科には在籍しました。しかし、学校のクラスにはほとんど関心もなくほとんど行きませんでした。学校の雰囲気は、なにかタゴールだけを高く祭りあげることはしても、地元の少数民族のサンタル出身の人を受け入れることもなく、学校の教育内容からは腑抜けしたような教育環境を感じたのです。

そこで私は、学校には行かずに、文化の豊かな周辺のサンタル少数民族の人々の村を訪れたり、学校へ行けない子どもたちに’砂漠の学校”(粘土細工や歌を歌ったり、英語を教えたり)しながら、夜には、タゴールが作詞した歌を歌って過ごしていたのです。沙漠に住む子どもたちを集めて、沙漠の学校を作ったのも、その頃でした。

のどかな時代でした。文化や自然の豊穣なベンガルの地で2年余り生活していたのですから。幼いタゴールがベンガル語の韻の詩句を習い始めた時「ジョル・ポレ、パタ・ノレ(雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ)」という自然から湧き出た美しい言葉に霊感を感じたのは有名な話ですが、私も毎日、ベンガルの激しく流れる雨雲の下で、子どもたちと一緒に遊びながら、楽しく過ごしていたのです。ジョル・ポレ、パタ・ノレ・・・・

そのロトンポリの地のおかしな形をした私の住居(画家キロン・シンハーの家)は、カルカッタ領事館に所属しベンガル語を学んでいた藤田日出男さんの紹介で住むことになったのですが、広い大地の素晴らしい景色のあるところでした。たくさんのタルガーチの木が風に吹かれて揺れていました。

藤田さんが、毎朝、水汲み人を呼ぶ声が、朝霧の中に「ロモーン、ロモーン」とよくロトンポリに響いていました。私は、あの当時ドイツからシルクロードを2ヶ月かけて陸路でインドまでやってきたのですが、大学に到着した当時は、京都の仏教大学から留学していた田中典彦さんの家に居候させていただいたこともありました。助かりました。また中村仁さんは、シタールやイスラジなどを勉強されていましたが、「炎天下でシタールの音が聞こえてくるのを聞くのは感激」と言っていました。芸大の彫刻科を出て、学校にやってきた村上さんも、張り切って製作に励んでいました。彼とは一時期一緒に暮らしたことがありますが、使用人のアルティの妹「ミヌーティ」にモデルをやってもらっていると嬉しそうに話していたのが、昨日のことのようですね。

そのころ、私は毎日、ベンガルの激しく動く雲を見ながら、子どもたちと一緒に遊びながら、過ごしていたのですが、その赤茶けた大地を夢想しながら創作したのが「さばくのきょうりゅう」 (Dinosaur of the desert) という物語でした。この物語は日本語では「大亀ガウディの海」(透土社刊・丸善販売)に収録されていますが、英語版(バオバブ・ブックス)にも翻訳され、英語版からは28言語にも翻訳されていきました。

バングラデシュのダッカでは、ベンガル語版になって刊行され、その版はシャンティ二ケタンの図書館にも寄贈されたのでした。嬉しかったですね。シャンティ二ケタンに暮らしたときに創作した物語が、シャンティ二ケタンに帰っていったのですから。
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           さばくの恐竜の物語りも収録しているベンガル語版(バングラデシュの出版社)
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                 さばくの恐竜の物語りも収録している英語版

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                        日本語版の「さばくのきょうりゅう」(講談社)

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                 さばくのきょうりゅう (インドのデリーの出版社(14言語出版)ベンガル語版

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                 びっくり星の伝説 (インドの国立文学アカデミー)ヒンディ語版
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                  びっくり星の伝説 (インドの国立文学アカデミー)ウルドゥー語版
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                  びっくり星の伝説 (インドの国立文学アカデミー)パンジャビ語版
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                 びっくり星の伝説 (インドの国立文学アカデミー)語版 マラティ語版


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                 大亀ガウディの海」のベンガル語版 (ダッカ、バングラデュ)

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                           大亀ガウディの海のマラティ語版(インド)

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http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%BA%80%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%81%AE%E6%B5%B7-%E7%94%B0%E5%B3%B6-%E4%BC%B8%E4%BA%8C/dp/499025810X


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おもしろいものです。日本へ留学した西ベンガル出身のある学生が、その本を読んだと言って、わざわざ東京の私の自宅を訪ねてきてくれたこともあったのです。後にこの本は、インドのデリーの出版社から英語やベンガル語など14言語でも翻訳出版されました。この絵本(講談社ーベストセレクション)で講談社出版文化賞も頂きましたが、イラストは、友人の韓国のカン・ウー・ヒョンさんのものです。広い砂漠を渡っていたラクダの隊商が、分け前をめぐって争いを始めるのですが、それを砂漠の地で眠っていた恐竜がなげいているという物語です。これは家の前に広がったえいたロトンポリの荒野を見ながら、想像して書いた物語です。その荒野を歩くと、植物などの化石がよく転がっていましたが、すべての存在は、いつしか化石になってしまうと想像したときから、巨大なきょうりゅうが荒野の下に眠っているという想定で物語を作ったのです。


私はもともとインドのブッダやタゴールの哲学に憧れて、学生時代からインドへ行ってみようと夢見ていました。早大の教育に在学していたとき、タゴール研究者であり、当時早大助教授であった我妻和男先生からシャンティ二ケタンのタゴール大学への推薦を受けて留学したのが南アジアとのかかわりの始まりです。我妻先生は、タゴールに深く傾倒されると同時に、奥様と一緒に日印関係の発展に全力を尽くされました。我妻先生。そして内山真理子さんとの出会いがなかったら、まずシャンティ二ケタンには行っていなかったでしょう。考えてみればあっという間に月日は経つものですね。我妻先生には、ユネスコの時代にもいろいろと講演などをお願いしてお世話になりました。


当時は、大学のキャンパスの中の中国語学部(チナババン)の建物の中に、日本語学部の図書館が入っておりましたので、ここにはよく通いました。牧野財士先生が日本語の教師をしておられましたが、牧野さんには公私ともにいろいろとお世話になりました。その頃、私はドイツからインドまで、シルクロードを陸路で旅してきたのですが、シャンティ二ケタンに到着したときには、ひどい下痢でふらふらだったのです。しかしある日、牧野さんが日本食を作って持参して下さったのはとてもありがたいことでした。またあるときは、娘さんのせっちゃんを連れて、私が砂漠の子どもたちを対象にやっていた”砂漠の学校”で学ばせようと来られました。私はその頃、大学にはほとんど行かずに、毎日砂漠にすんでいて学校に行けない貧しい子どもたち、かれらは砂漠でヤギや牛の世話をしていたのですが、その子どもたちに小さな学校をやっていたのです。
それは学校とは言えないもので、自宅を開いて7名位の子どもたちに粘土を使っての創作や、英語を教えたり、歌を歌ったりしていたのでした。せっちゃんもその仲間に入って粘土で動物を作っていたのでした。


この前、茨城の五浦の岡倉天心たちが創立した研究所を訪れたことがありましたが、天心はタゴールのシャンティ二ケタンを度々訪問していましたね。天心が日本刀をタゴールの兄に贈呈したという話しをゆかり(タゴールの兄の娘、その頃はすでに70歳以上でした)から直接聞いたことがありますが、その地はタゴールも愛したロトンポリという荒野の地でした。「私の兄がオカクラから刀をもらった」と彼女がしゃべったのには、驚きました。歴史が生きている空間だったのです。私は彼女の夫ーKPセン氏から、ときどきタゴールの歌を直接習ったのでした。


またその地で学んだ長年の友人の画家、A.ラマチャンドランさんを招いて、2007年10月、東京でICLC主催の講演会を開いたとき、彼はシャンティ二ケタンについて次のような話をしていました。ラマチャンドランは現在、インドで最もよく知られた芸術家です。日本では「まるのうた」や「ハヌマン」などの絵本作家として知られていますが、本国では絵本作家としては全く知られていません。彼は壁画やブロンズ製作など多数の作品を制作しているのです。彼はシャンティ二ケタンについて、次のように話しています。

「シャンティニケタンでは、教室の中で教えるのではなく、外の自然が私たちの先生だった。近くの村にでかけ、人々や風景をスケッチすることをさかんにやらせた。 この現実の生活をスケッチし、自らの想像力とあわせて作品を作りあげていくという習慣は、その後もずっと私の習慣となっていった。そして師のラムキンカールは私に何かを話して教えるわけではなく、私は師のする仕事のすべてを見、あらゆる瞬間に私は学んでいた。それは彼がスケッチをしているときにも、粘土をこねているときも、彫刻をつくっているときも、油絵を描いているときにも、また彼が歌ったり話をしているときにも、そして師が演出する演劇で、私が役を演じなければならなかったときにも、あらゆる機会が学びの時であり、学ぶことがないという瞬間はほとんどなかった。

このような師匠との関係を私はとても誇りに思っている。そして今日でも何か仕事上の問題に直面した時には、師を思い出し彼の考えを思いかえしてみるのである。ラムキンカールが教えてくれたことは、技術をこえたものを見ることであった。いわゆる美術のきまりごとや美術学校で教えてくれるようなものをこえて、自分自身の哲学を作れといわれたのである。その哲学には枠組みがあり、ラムキンカールがその枠組みを与えてくれ、その枠組みをもって私は活動してきた。」と語っていました。素晴らしい講演会でした。


私がシャンティ二ケタンにいた時、学校への道端に建っている粗末な家で、年老いたラムキンコールさんを見かけたことがあります。上半身は裸で、私はサドゥー(修行者)かと思ったものです。ラマチャンドランの先生だったのですね。先に話したA.ラマチャンドランは、タゴール亡き後は、大学の最も優れた芸術家と言われていますが、彼との語らいはそれはそれはおもしろいものです。 下記は彼のサイトでたくさんお作品が掲載されています。このサイトは、アメリカにいる彼の息子が製作したものです。http://www.artoframachandran.com/

そして妻の、チャメリさんは、インド生まれの中国人系インド人、同じように素晴らしい画家です。彼の父は、タゴールが中国から招聘したタン教授なのっですから、おもしろいめぐりあわせです。2008年6月現在、二人ともロンドンで個展をやっていて、ロンドンから久しぶりに電話をくれましたが、なかなか素晴らしい絵です。
http://www.grosvenorgallery.com/exhibit_view.asp?id=1311

A. ラマチャンドランは、京都の秋野不矩(ふく)さんや丸木位里・俊さんの友人でしたが、私にとっても年齢は異なっても、ユーモアをいいながら、夜更けるまでお酒を飲みかわしたバングラデシュ・絵本ワークショップ(1982年)以来の友人なのです。彼は私の「コンキチ」や「大亀ガウディの海」の物語のイラストも描いてくれました1990年、バーシャ・ダスさん(作家、現在、マハトマガンジー平和博物館館長)が、「大亀ガウディの海」の大作(60枚全カラーのイラスト)の絵を、タイで開催していたワークショップの地まで持参してくれたのですが、イラストが多いのでこの絵本が実際に出版されたのは2005年でした。夢見るような美しい絵本です。

つまりシャンティ二ケタンのつながりは、今も続いているわけです。





ーこれはシャンティ二ケタンに因んだ物語ですー

ガダバブー(ロバのだんなさま)の話


私が、インドの西ベンガル州のシャンティ二ケタンで学生時代を送っている時、カルカッタから一人の若い男が訪ねてきました。名前はなんでも秋人(アキヒト)とか言いました。彼は大きな夢を持っているというのです。なんでもその夢の実現のためにマグロ漁船に2年間乗って働き、お金を貯めたというのですが、彼の夢とはインドの「ロバ」に乗って、カルカッタからパリまで陸路で旅をするというのです。歴史上、まだ誰もまだ実現したことがないということや、ロバに乗ってのんびりと行くのというのが、夢の核心部分でした。

私自身もロバは大好きだし、シルクロードをロバで行くという大ロマンには考えただけでもぞくぞくして、そこである晩、彼を夕食に招いたところ、彼がマグロ漁船で、どのようにして働いていたか、どうやってお金を貯めたかということなど最盛期の働きぶりをかれは実演してくれました。大きなマグロが次々と捕れた時、どのように必死に大きな縄をたぐり寄せるか、その表情には、夢を実現するための熱意のすべてがこもっているようでした。その熱意があればどのような夢の実現も可能のように見えました。私はそれだけでも感心してしまいました。

彼は、大都会のカルカッタの周辺でロバを探したそうですが、どうしても見つからず、そこで日本人の留学生もいるタゴールの設立した学園のあるシャンティ二ケタンの地で、日本人の協力を得てロバを探そうとしていたのですが、やっと苦労して手に入れたロバは「クリーニング屋」で働いていたロバでした。クリーニング屋のロバとは、衣類を洗濯するため、近くの沼まで10頭ぐらいが毎日山のような衣類を運ぶのです。そのロバを譲ってもらうことにしたのです。彼は大喜び大喜び・・・・まるで夢が実現したかのように興奮しました。

しかしこのロバは、クリーニング屋の主人の厳しい叱責で働いても、異国からやってきた見知らぬ男の下では決して働こうとしません。アキヒトさんの性格はなんとなくのんびりしているのです。購入したとたんに全くロバは歩かなくなったというのです。しかし彼は、みんなの助けを借りて、懸命に引っ張り引っ張り安ホテルまで帰っていったそうですが、力の強いこのロバの足蹴りで何度も彼は蹴倒されたそうです。それを見た沿道の子どもたちは、炎天下でロバを必死に引っ張る男を、「ガダバブー」(ろばのだんなさま)と囃(はや)したそうです。ちょうどその頃はメラ(祭り)の季節でしたから、たくさんの子どもが集まって大声で馬鹿にしたそうです。

しかし彼は人からなんと囃されようとものともせず、意志をますます硬くしたのですが、クリーニング屋のロバはどうしても思うように動いてくれません。私が彼に初めて出会ったのは、ロバを木の下に繋いで、一生懸命に悩み考えている時でした。彼はひたすらに彼の夢の実現を考えていたのです。私も相談を受け、どうしたらいいか、ロバをどうやって調教するかが大きな課題でした。しかしロバは黙って木の下で草を食べていました。彼の夢なんかに協力するわけにはいかないと。

大金をはたいて購入したロバが思うように歩いてくれなかったら、彼の夢の実現はいったいどうなるのか・・・。その夜、彼は大変苦悩しているようでしたが、結論は、翌朝、ロバを売り戻すということでした。ロバの足蹴りが続くと、彼の命の保障だってありませんからね。しかしクリーニング屋の主人は、売却時の値段では引き取らず、結局半値になったのでした。私は、彼には是非ロバにまたがって、シルクロードを歩んで欲しかったのですが、そういうわけにもいきません。それはロバの脚蹴りをお見舞いされていない者の発想でしたからね。

結局、そのお金で彼は「リヤカー」を製作・購入し、彼の持ち物一切を、とは言ってもなにも大したものはなかったのですが、木工屋で特製の木箱を注文したのです。そこに一切合切のものを入れて、準備が整うとシャンティ二ケタンから颯爽とパリ目指して出発したのでした。

季節は雨季でしたが天気のいい日でした。彼を見送りにシュリニケタン(希望の地)まで仲間たちと一緒に行きましたが、彼が引っ張るリヤカーの箱の上にはみんなが寄贈した美しい花が飾られてあったので、まるで彼は棺おけを運んでいるような奇妙な光景でした。

「元気でね!」とみんなで手を千切れるほどに振ったのですが、彼は緊張の余り表情を変えることなく首に手ぬぐいをしっかり巻いてから、にこっと笑って元気に歩み出したのです。それは大したものです。彼の夢の達成を、ロバの努力ではなく、彼自身の足で歩み出したわけですから。その様子を、シャンティ二ケタンの地で知り合ったオーストリアのチベット仏教を学んでいた留学生のガールフレンドも心配そうに見つめていました。名前をアンドレアといいましたが、今思い出すと、まるで昨日のことのようですね。

それから・・・・1ヶ月が過ぎたころ郵便局の前で、アンドレアに会ったとき、彼女は1通の手紙を私に差し出しました。それは彼からの手紙で、日本語の文面を英語に翻訳して欲しいというものでした。文面には彼女への思いがせつせつ書いてありましたが、旅の途中に立ち寄る地方の郵便局から投函したものと思われます。とにかく彼は元気に歩いているようなので安心しました。しかしアンドレアの恋も、相当に執念深いようにも見えました。


それから2ヶ月が過ぎたころ、驚いたことに、私の家の前に広がっているロトンポリの荒野で、凧(たこ)を揚げている二人連れを見かけたのです。なんとびっくり、アキヒトとアンドレアなのです。
「ありゃ!!どうしたの?あんた、パリに向かったんじゃないの?」

びっくりして尋ねると、彼は恥かしそうに、
「いえ、デリーまでは2ヶ月かけて歩いたのですが・・」と言ったあと

「アンドレアが言うのには、アフガニスタンのカイバル峠では必ず山賊が出て、命を落とすだろうから、このような危険な旅は止めて、それよりも一緒に、彼女のオーストリアへ行きましょう」と強い説得を受けたというのです。アンドレアは、彼がデリーに入る前にデリーに先回りして待っていたのだそうです。そして、彼を飛行機に一緒に乗せてカルカッタまで帰ってきたというのです。そして

「デリーまでの行く先々の道々では、村の子どもや大人たちからずいぶん馬鹿にされました。インドの村では、見知らぬ風袋の異邦人は、みんなから囃されて馬鹿にされるのですから」と口惜しそうに言うのです。

「・・・・なあんだ!パリ行きの夢の実現は、アンドレアの夢に摘み取られたわけですか」そう言って私は大笑いした。アンドレアはなんとなく恥ずかしそうな笑みを浮かべていたが、嬉しそうでもあった。そうか、アキヒトさんのパリまで行くという夢は「ウイーン」に変更されたということか。そういう意味では、祝福していいのかもしれないが・・・と思いながらも、私としては、なんとしてでも彼にはリヤカーを引っ張って、一路パリを目指して歩んでほしかったと願ったものである。これは世紀の大ロマンなのだから・・・・

その数年後、毎日新聞の紙上で、大学の探検部に属する学生たちが、いろいろ冒険譚を語っているのを読んだことがあるが、その中である学生が「なんでも、ある若者がロバに乗って、カルカッタからパリに向かったという話を聞いたことがあるが、その後彼はどうなったのだろうか」としゃべっていた。

その記事を読んで私は苦笑した。彼の行き先は変更となったこと、行き先がパリではなくて、ウイーンとなったこと・・そしてロバの背中に跨ってではなく、ロバのように頑固な奥さんに掴まったしまったことなどなど・・・・そういう意味では彼は現在もアンドレアというロバに乗って旅しているのかも知れません。蹴られなければいいのですが(笑)

「そう、本物のロバに乗って夢を達成するのは、本当に難しいことなのです。」



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